sellerapple’s diary

本のアプリstandに投稿した記事の過去ログです。

滝山コミューン一九七四 

本書は60年代後半から開発の始まった新興住宅地である滝山団地。そこに新設された東久留米市立第七小学校にコミューンが誕生していたのではないかとの仮説をイデオロギー、時代背景、その立地から解いていく。

その物語は一人の新任教師の赴任から始まる。
長髪をなびかせノーネクタイで颯爽とあらわれた新任教師片山勝(仮名)に生徒たちのみならずその親もたちまち引き寄せられていく、しかし彼は異世界から送り込まれた未来人であった。その目的は小学校を拠点として地域を支配し日本を侵略することにあった。
といったこともあながち外れてはいないであろう全体主義の恐怖がじわじわと染みてくる。
しかし著者の記憶力の良さ、作品内でのあまりにも出来すぎた全体主義にこれは著者の妄想で緻密に作りこまれた虚構の世界なのではと疑ってしまうほどの完成度の高さ。
くしくも本文中にあるように眉村卓光瀬龍のような学園SFものと同じ読後感がある。

そう片山に織田信長の歴史を解いて否定されたルサンチマンが本作をここまでの傑作に仕上げたのではないだろうか。「すでに四谷大塚の試験では、明治時代までの歴史が出題されていた。私は1560年の桶狭間の戦いから1582年の本能寺の変まで、信長の生涯を教科書通りに淡々と説明した。おそらく私は、文部省が上から押しつけた教育をおうむ返しにするだけの、最も嫌なタイプの児童と映ったに違いない。案の定、片山はこう言った。-それでは説明になっていない。そんなことは、教科書を見れば全部書いてある。ほかに誰かいるか。」p.213~214

どんなイデオロギーであれ全体としてまとまった押し付けからくる権威主義の居心地の悪さ
それも善意からくるのであればなおさらだろう。

本書のクライマックスは林間学校ではなくその前段階である事前集会での「いざゆけやなかまたち」で始まる「わんぱくマーチ大合唱」で迎える。
「二百人近くが唱和する歌声は、一つの大きなうねりとなり、また地鳴りとなって、体育館に響きわたった。そこには、私が好きだった校歌にはない力強さがあふれているのを感じないわけにはいかなかった。二十の旗が林立する中で、私は底知れぬ疎外感に襲われた。
それでも歌っていくうちに、うねりや地鳴りに抵抗しようとする個が崩壊し、二百人近い集団に飲み込まれていくような、全く別の感覚がじわじわと押し寄せてきた。理性としては認めたくないのに、私もまた心地よい一体感を味わっていたのである。」p243~244
まさに洗脳及び支配が完了した瞬間である。

丘陵に作られた多摩ニュータウンと違い武蔵野台地上に作られた滝山団地は起伏もなくその均一性を更に際立たせる。

時代の空気感はハマでいったら磯子センターの図書室を彷彿とさせた。
そのように運営されていたわけではなくあくまで建物の質感の記憶としてだが。