sellerapple’s diary

本のアプリstandに投稿した記事の過去ログです。

「私の東京町歩き」川本三郎著筑摩書房

「私の東京町歩き」川本三郎筑摩書房。雑誌「東京人」の87年~89年の連載を書籍化、つまり昭和の最後期だ。既に30年は経過しているのでここに書かれている町並みは既に存在しないかもしれないがしかし変わりゆくのが東京でありその儚さも魅力でありそれはしょうがない事だ。

著者はあとがきで「こういう散歩エッセーは本質的にさまざまな矛盾を含んでいる」ことを認めたうえで「町歩きは本当はただ無為に歩いているときがいちばん楽しい、観察したりタウンウォッチングしたりするより町の風景の中に自分を自然に溶け込ませているときがいちばん心地よい」と書いている。


「夕暮れ、見知らぬ町の見知らぬ居酒屋でひとりでビールを飲んでいるとき、寂びしいのだがしかし不思議と心が落ち着く」この心持はポルトガル語サウダージとでもいうべきか、ふらりと入った居酒屋で飲むビールがなんともいえず美味しそうだ。

 

前作と違って本作は東東京中心それも最果ての足立区舎人、江戸川区篠崎、大田区羽田といった辺境を巡るのも趣があるそしてそこには川が流れているのだ。

滝山コミューン一九七四 

本書は60年代後半から開発の始まった新興住宅地である滝山団地。そこに新設された東久留米市立第七小学校にコミューンが誕生していたのではないかとの仮説をイデオロギー、時代背景、その立地から解いていく。

その物語は一人の新任教師の赴任から始まる。
長髪をなびかせノーネクタイで颯爽とあらわれた新任教師片山勝(仮名)に生徒たちのみならずその親もたちまち引き寄せられていく、しかし彼は異世界から送り込まれた未来人であった。その目的は小学校を拠点として地域を支配し日本を侵略することにあった。
といったこともあながち外れてはいないであろう全体主義の恐怖がじわじわと染みてくる。
しかし著者の記憶力の良さ、作品内でのあまりにも出来すぎた全体主義にこれは著者の妄想で緻密に作りこまれた虚構の世界なのではと疑ってしまうほどの完成度の高さ。
くしくも本文中にあるように眉村卓光瀬龍のような学園SFものと同じ読後感がある。

そう片山に織田信長の歴史を解いて否定されたルサンチマンが本作をここまでの傑作に仕上げたのではないだろうか。「すでに四谷大塚の試験では、明治時代までの歴史が出題されていた。私は1560年の桶狭間の戦いから1582年の本能寺の変まで、信長の生涯を教科書通りに淡々と説明した。おそらく私は、文部省が上から押しつけた教育をおうむ返しにするだけの、最も嫌なタイプの児童と映ったに違いない。案の定、片山はこう言った。-それでは説明になっていない。そんなことは、教科書を見れば全部書いてある。ほかに誰かいるか。」p.213~214

どんなイデオロギーであれ全体としてまとまった押し付けからくる権威主義の居心地の悪さ
それも善意からくるのであればなおさらだろう。

本書のクライマックスは林間学校ではなくその前段階である事前集会での「いざゆけやなかまたち」で始まる「わんぱくマーチ大合唱」で迎える。
「二百人近くが唱和する歌声は、一つの大きなうねりとなり、また地鳴りとなって、体育館に響きわたった。そこには、私が好きだった校歌にはない力強さがあふれているのを感じないわけにはいかなかった。二十の旗が林立する中で、私は底知れぬ疎外感に襲われた。
それでも歌っていくうちに、うねりや地鳴りに抵抗しようとする個が崩壊し、二百人近い集団に飲み込まれていくような、全く別の感覚がじわじわと押し寄せてきた。理性としては認めたくないのに、私もまた心地よい一体感を味わっていたのである。」p243~244
まさに洗脳及び支配が完了した瞬間である。

丘陵に作られた多摩ニュータウンと違い武蔵野台地上に作られた滝山団地は起伏もなくその均一性を更に際立たせる。

時代の空気感はハマでいったら磯子センターの図書室を彷彿とさせた。
そのように運営されていたわけではなくあくまで建物の質感の記憶としてだが。

「ロンリネス」桐野夏生

「ロンリネス」桐野夏生

「ハピネス」の続編。夫と娘一人の有紗が住む21世紀の団地ことタワマンを舞台に前作とは違って団地妻もといタワマンママの水面下での足の蹴り合い及びマウントの奪い合いから、今作は思いもよらぬ男性との出会いそこからの発展と個人的な領域に踏み込んでいる。

舞台となる湾岸にある52階建てのタワマンは世間があこがれるイメージとは裏腹に「再びごみの袋を提げて、長い開放廊下を端にあるゴミ集積所まで歩いた」P.6「ゴミを捨てた後、エレベータを待ちながら有紗はつい先ほどの会話を反芻して首を振る」P.12とあるようにどうもこのタワマンはゴミ置き場が各階に無いらしくそれが一層の団地感を醸し出している。わりと低価格帯なのかもしれない。

高い管理費と修繕積立金、それを入居前に計算できず負担に耐えられずなのか新婚時の思い出づくりなのかわからないが入れ替わり立替わりで猫の目のようにくるくる変わる若い住民及びそれに伴う長期居住者との断絶、なかなか出てこない機械式駐車場、海っぺりの吹きっさらしが更に加速させる強烈なビル風(一部作中には登場しない表現あり)どうでもいいマウントの取り合い、そこにどう向きあっていくのか物語の後半に結論らしきものは出るのだが。なぜ人はタワマンに惹かれるのか?奥様それでもタワマンに住みますか?

 


またこの物語のもう一人の主役ともいえるタワマンの亜周辺にいる「公園要員」の江東区土屋アンナこと美雨ママが小気味良いフックを繰り出していく。「わかるよ、とってもよくわかる。何度も言うけど、あたしは別に不倫しろと言いたいんじゃないの。結果として不倫という言葉が付いてくるけど、仕方がない時もあるんだよ。大人なんだからさ。それを有紗だけにはわかってほしくて、言ってるの」P.142

「常套手段だよ。女が逃げようとすると捕まえて、女がマジになると腰が退ける」P.408

そして有紗が得る「旅」という視点、そこから至る結論というか発想に行き場のなさからの解放を感じた。

「さっきね、あなたともう会わないと決めたときに、旅をやめて帰ろうかとふと思ったの。で旅という発想にちょっと驚いていろいろ考えていたのよね。そしたら、あなたからのメールがきて旅の魅力に負けたのよ。旅って

あなたと付き合うことよ。だけど、旅だから、いつか帰るのかなとも思った。家に帰るんじゃなくて、自分自身に帰るのかしらとかね。そしたら、家族とか責任とか倫理とか

あまり人に縛られて生きることはないかもしれないと思えて」p.414

それが「恋愛」という一時的な二人の共同幻想だとしても

誰の為でもない「自分自身」という気づきこそが解放感の故なのだろう。

 


全くの余談だけど作中にも登場する「ららぽーと豊洲」にある書店の開店準備である棚詰めを10年以上前に手伝ったことがあり館内に謎の遊園地的な施設が全くの予想付かずだった為、作業中のとっても忙しいところを勝手にお邪魔してどういった施設か質問したところ「こども向けの就業体験施設」との回答を得た。それが「キッザニア」だった。あの当時のキッザニア職員の方大変お忙しいところどうもありがとうございました。

あの時はお邪魔してすいませんでした。

「飢餓同盟」安部公房

「飢餓同盟」安部公房

かつての温泉街花園を舞台に土着の支配者とひもじいと称されるよそ者が結成したアナーキスト同盟たる「飢餓同盟」戦後民主主義を象徴する「読書会」3すくみのわちゃわちゃした対立を哀しくもどこかユーモラスに描く。

 


招致された医師である森が町につくも一向に病院にたどり着くことができない阿部公房的な不条理たらい回しぐるぐる地獄や人間をいかなる機械よりも精密な機械と化してしまう!ドイツ製の怪しげな薬「ヘクザン」の実験台となった地下探査技師織木、飢餓同盟員に対し「たとえばソロバンを盗んでこい、財務部長らしくなるために、明日までに割り算の九九をおぼえろ。電球を三つ盗んでこい。将来キャラメル工場の煙突塗り替えるために、毎日電柱にのぼる練習をしろ。姉さんの指紋をとってこい。電気コンロを盗んでこい。そして昨日は姉からヴァイオリンを盗んでこいというわけだ」P185と無茶ぶりをするリーダーの花井(ヒロポン中毒)等々奇妙奇天烈な登場人物が繰り広げる人間喜劇。

 

「きみの鳥はうたえる」佐藤泰志著

きみの鳥はうたえる佐藤泰志

 

佐藤泰志作品は一見、重く暗いと捉えがちであるが(もちろんその側面もあるが)「言い終わらないうちに、左の奴に脇腹を蹴られて、思わずうめき声をあげた。体勢をたてなおそうとすると、もうひとり男の腕が斜めからでてきた。あやうく顔をそらした。こぶしが

耳にあたって、切れたように痛んだ。そらした顔に別のこぶしが当たった。よろめいて地面に手をつくと背骨を思い切り蹴られた。続いて、めくらめっぽうに脇腹を蹴りあげられて、腹が熱くなり、胃液がこみあげてきた」素手喧嘩の流儀をわかっているというか実は躍動感あふれるリアルな暴力性が魅力でもあったりする。

 


8月に映画が公開になったが下記はその感想

「延々と流れるクラブと夜遊びのシーンのように若さと3人の関係はいつまでも続くと思われたが、突然にそして静かにその終わりを迎える。しかし終わりがあるからこそ始まることができるのだ。ハセガワストア、鈍色に光る市電のレール、佐知子の上げた髪。」

良い映画を見た。

「暗黒日記」清沢洌著岩波書店

「暗黒日記」清沢洌岩波書店

著者の清沢洌 は外交評論家であり東洋経済新報社顧問であった。本書は言論思想の自由が獲得されたときに、戦争時期の日本政治と戦争政策、外交政策への批判的検討の材料を意識的に集積した内容となっている。ちなみに清沢洌 は敗戦を知ることなく1945年5月に肺炎がもとで急逝している。

本書が書かれた戦時下日本の状況と現在を照らし合わせると少なからず重なり合う場面があることに驚く

1943年8月17日

「各大学、専門学校生徒は、休暇奉還と称して労苦に服す。そのために犠牲者続出。左はその一例なり。科学的ならざる「錬成」を知るに足る。『病躯、炎天下の作業 一高生遂に倒る。貫く勤労即戦場の精神』

1944年7月28日「今回の戦争で生命を喪ったものの数は意外に多いらしい。まだその損害数を一回も発表しておらず、ただ米国側の発表を嘲笑しているだけだ。おそらく最後まで戦争の真実を知らせぬであろう。」

1944年11月4日

「神風特攻隊が、当局その他から大いに奨励されている。ガスリンを知るに片方しかもっていかないのらしい。つまり、人生二十何年を「体当たり」するために生きてきたわけだ。人命の粗末な使用ぶりも極まれり。しかもこうして死んでいくのは立派な青年だけなのだ。」

日本スゴイも若者の搾取も全く70年前と変わらず。こうしてオリンピックという無用な国家イベントの為にまた歴史は繰り返されるのだろうな。

「思考としてのランドスケープ 地上学への誘い」石川初著LIXIL出版

「思考としてのランドスケープ 地上学への誘い」石川初著LIXIL出版

 

「風景」や「景観」とも訳されるランドスケープへの新しい視点を気づかせてくれる。「里山セット」、「フィルタリング」されざるを得ない地図 内部を流動化するための外部の武骨化、どれもなるほどと膝を打つ。

里山セット」とも呼べる「浅間山古墳」の農地利用、墳丘の周りは水田、墳丘段上の前方部は段畑、後円部は薪炭林という地形の読み取り方というかこれは地形のブリコラージュとでも言うべきかそれが古墳の形状を1500年も維持させるという制度を超えた人間の営みのしぶとさが面白い。

「無骨な躯体が内部のツルツルな滑らかさを支えるという構造は、道路や鉄道をはじめ、排水溝や水道管や銃まで、なにかを素早く『流す』ためのさまざまな施設や器具に見られる。外部の構造体は頑なに無骨であることによって、内側の流れの状態をよくすること、つまり『流れてきたものが速やかに流れ去ること』を支えている。また、そのように頑なであることによって、外側の構造体は滑らかな内部と周囲の環境とを隔絶している。内側と外側、それぞれにあるものの様態に注目するなら、この隔絶によって分けられているのは、ものが動くスピードである。滑らかな内部は、滑らかであることでそこに『流れる』ものの速度と量を調整している。この隔絶はまた、内部を流れるものが外部環境を巻き込むことを防いでいるとみなすこともできる。高速道路の自動車たちも排水溝を流れる水も、そこに閉じ込められることによって周囲の土地への影響をなくしている」P.168

2018.08.12